1990年のサッカーワールドカップ。
イタリア代表のスーパーサブとして輝いたロベルト・バッジョは、4年後、1994年のアメリカ大会でイタリアの至宝として帰ってきました。
この大会はバッジョの大会になるはずでした。
1993年にはバロンドール(最優秀選手)を受賞しており、イタリアのみならず多くのサッカーファンはイタリア初のワールドカップ優勝に期待をよせていました。
しかし、バッジョは大会直前に痛めた足の故障もあり、同大会予選リーグは精彩を欠いていましたが、決勝トーナメントに入ると怪我を忘れさせるような輝きを見せ3試合で5得点をあげ、イタリアを決勝に導きました。
決勝戦の相手は王者ブラジル。延長戦を含め120分で決着がつかなかった試合は、ワールドカップ決勝史上初のPK戦に委ねられました。
イタリアはバレージ、マッサーロがシュートを外し、2-3のビハインドで5人目のバッジョのPKを迎えました。
彼はセリエA、PKの歴代最多記録保持者でもあり、当時栄華を極めていた所属クラブのACミラン、代表で数々のPKを決めてきました。
世界中が期待をよせる中、私が見たサッカー史上もっとも過酷な運命が待っていました。
ボールはゴールポストの遥か上に飛んで行ったのです。
この瞬間、イタリアのワールドカップ初制覇は消え、彼のキャリアやサッカー史に悲劇として語られる事になりました。
「バロンドールの呪い」と呼ばれるものです。
「PKを決めても誰も覚えていないが、外したら誰も忘れない」
呆然と立ち尽くしたバッジョが放った言葉です。
4年後の1998年フランス大会
PKを外したディ・ビアッジョは国内で戦犯扱いされ、批判に晒されました。
そんな中、
「PKを外すことができるのは、PKを蹴る勇気を持った者だけだ」
という言葉をバッジォがビアッジョに送っています。
コンテストは意味の通り「競争」です。
望む結果を得られる人はほんの一握りだと思います。
夏は模型でも様々なジャンルのコンテストが行われます。
1年間をかけて挑むメンバーも初挑戦のメンバーもリベンジを誓ったメンバーもいます。
私は出来ないこと・難しいことに挑戦することに意味があるのだと思います。
自分自身との「競争」もコンテストの大切な要素だと思うのです。
自分に負けず、挑戦するメンバーを見かけたら、是非声をかけてください。
PKを蹴る勇気を持ったモデラーがここに集まっています。
Sixth Magnitude Star
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